Dr.Kのあゆみ Vol.11(研修医時代のあれこれ)
今回のブログはこれまでの「Dr.Kのあゆみ Vol.1~10」の続きになります。
「Dr.Kのあゆみ」シリーズVol.1はこちら
「Dr.Kのあゆみ Vol.10」はこちら
今日は、少しブレイクということで、本編からは脱線しますが、「研修医のあれこれ」と題して、研修医時代のよもやま話を書いてみたいと思います。
研修医の生活から金銭事情まで
2004年に今の研修医制度ができるまでは、研修医はほとんどお給料がもらえずに、週に1回他の病院へアルバイトに行き生計を立てていました。2004年からは初期研修医もお給料をもらい、その分アルバイトは禁止になりました。
これから書くお話は、約15年前の私が勤めていた病院についてのお話です。ところや時代が変われば、色々違うと思いますので、「こんな感じだったのかぁ」と流しながら読んでいただけたらと思います。
私がいた病院は完全担当医制でした。担当医制というのは、自分が担当する患者さんで何か緊急事態や確認事項などができた場合、夜間でも休日でも関係なく、担当している医師に連絡があることを指します。私がいた病院は、一人の患者さんに対して、常勤医師が主治医で、その下に後期研修医、さらにその下に初期研修医が担当していました。その中でも、研修医は病院から最初に連絡があります。研修医が最初に対応して、手に負えなかったら。後期研修医、さらにその上へと報告していきます。研修医の私が電話に出なかった場合、先輩に連絡がいったり、翌日カルテを見ると、「◯時◯分、◯◯医師に連絡するもつながらず」と書かれることもあり、少し悲しくなるので、出来る限り電話には出るようにしていました。というわけで、ある意味24時間営業なのですが、病院からいただくお給料は平日9:00-15:00までの分のみが支給されました。残業代は発生しません。現実は、もっと朝早くから働き、15:00に終わることなんて、1日もありません。夜遅くまで働き、夜間も呼び出されることもあります。さらに、土・日曜日も午前中のうちに患者さんを回診して、カルテを書いて問題がないようであれば、昼頃からようやく自分の時間でした。その中で、週に1-2回、当直がありました。当然、初期研修医は常勤の枠ではありませんので、ボーナスはありません。お給料は平日しか出ていないので、ゴールデンウィークに忙しい科を回ると、朝から晩まで働いても、休日のため給料は一銭も出ず、手取りはいつもより少ないという悲しい状態になりました。
私が月にもらっていた給料は手取りで23万円前後でした。しかし、寮に住んでいたので、1年目は病院と棟続きの恐らく昔は特別病棟であっただろうキッチンなし、ユニットバスの1Rで約6000円、2年目は小さなキッチンがあり、ユニットバスでしたが、病院とは棟続きではない(が、PHSはつながる(涙))1Rで約8000円でした。都内の立地の良い場所にほとんど家賃なく暮らしていたので、生活するのに十分いただいているという感じがありました。
ちなみに、初給料はとても嬉しくて、同期で相談し、焼肉を食べに行きました。
今から思えば一番怖いと思うのが、この研修医2年間で、しっかり理不尽な労働に慣れてしまったことです。給料がもらえない時間に働く時間が多すぎて、給料をもらえずに働くということに抵抗を感じないように教育された感じがします。ある意味究極の洗脳教育だなぁとも思うのですが、おかげで今でも労働者としての権利意識が随分と低いのです。多くの医師は共感するのではないかと思います。そして、なかなかこの洗脳から解き放たれません。
病院から呼ばれたら、すぐに戻れるように近場(30分以内に帰ることができる場所)に同期とよくご飯を食べに行きました。どちらかが呼ばれたら、一緒に戻ったり、一人だけ戻ったりしました。みんな状況がわかっているので、突如呼ばれて戻るということも説明不要で楽でした。土曜日や日曜日の午後は、同期の部屋で一緒にお茶しながらリラックスしたりもしました。同期の存在はとても大きく、同じ境遇で頑張っている仲間に本当に支えてもらいました。
「米倉涼子」を一目見たい
研修医1年目の時に、医療系のドラマではなかったのですが、私たちの病院でドラマの撮影がありました。主演は米倉涼子さんです。日曜日でしたが、その日私は病棟当直でした。同期が「米倉涼子がいたよー!綺麗だったよ」と教えてくれました。私は見に行きたかったのですが、ちょうど仕事があったので見に行けませんでした。あと少しで頼まれていた仕事が終わる!という時に、もう一度同期が、「◯◯に米倉涼子いるよ、急いだら間に合うかも!ここで待ってるねー」と電話をくれました。ちょうど、仕事があいたので、慌てて向かいました。休日なので、外来には人は誰もおらず、人目もはばからず猛ダッシュしました。待っていてくれた同期が、私の猛ダッシュがあまりにも面白かったらしく、それからというもの「Kちゃんの猛ダッシュが忘れられない笑」とよく言われました。しかし、猛ダッシュの甲斐無く、米倉さんには会えませんでした。私たちの寮の下が、楽屋のようになっていたらしく、がっかりしていた私に、同期が「ひとまず、エレベーター各階で止めてみよう」と全て止まるように全部の階のボタンを押してくれました。2階が開き、「シーン」、3階が開き「シーン」、4階が開くと、なんと目の前に、現場で女優さんが座るような大きな折りたたみ椅子と足を組んで座る米倉涼子さんが!!!。あまりの美しさに反射的に、すぐに「閉」ボタンを押してしまい、終了。一瞬の出来事でした。一瞬だったからこそ、まるでシャッターを切ったかのように写真のように記憶しています。完全にミーハーです。
手術中のハプニング
今回は、全体的にポップなお話になりましたので、さらにポップな話を重ねます。手術の時は、手術着を着て、それからドラマで見るような形で手を洗って、手袋を装着してガウンを着ます。完成系を「清潔になる」と言うことが多く、ちょうど下の図のようになります。
この図をよくイメージしていただき、これからのお話をお読みください。
手術着のズボン(図の左側の緑のズボンをイメージしてください)には2種類のものがありました。ウエストがゴムタイプのものと、ゴムの部分が紐になってキュッと結ぶタイプのものです。お手洗いで楽なのは、ゴムタイプだったのですが、時々ゴムが心もとないことがありました。紐タイプは自分の力加減でキュッと結ぶことができるので、心配ありませんが、お手洗いでわずかに時間がかかります。ある日、急いでいてそのまま選ばずにズボンを掴んだらゴムタイプのズボンでした。そして、手を洗ってガウンを着て、手術が始まりました。一度手袋とガウンを装着した後は、手袋とどこにも触れていない部分のガウンは清潔です。手袋をしている手で、自分の顔などを触ることは決してありません。手術が始まり、しばらくしてから、ガウンの下の手術着のズボンのゴムが怪しいことに気がつきました。少しずつ、少しずつ、ズボンが下がってきています。
確実に下がってきているのですが、手は清潔なのでズボンを持ち上げることができません。手術台と体で、必死にズボンが落ちないように、そして何より周囲の先生に悟られないように、何事もない感じで耐えていましたが、ある瞬間、ついに「ストン」と落ちてしまいました。手術中は、2つの異なる働きをする看護師さんがいます。外科の先生に手術器具を渡す、これまた清潔になった(手洗いをし、手袋、ガウンを着たことを指します)機械出しの看護師さんと、清潔にならない外回りの看護師さんとがいます。私はこっそり外回りの看護師さんに声をかけました。「すみません、ズボンあげてもらっていいですか?」と。突然の申し出に、看護師さんは「はい?誰の?」となってしまいました。それもそのはず、別にびんぼっちゃまくんのように後ろ側がパンツ一丁になっているわけではなく、先ほどの図の右側を見てもらうとわかりますが、ガウンがふくらはぎあたりまでの長さがあるので、ズボンが落ちていることに気がつきにくいのです。看護師さんがガウンの後面のつなぎ目をめくって「プっ」と笑いました。ガウンの中ではズボンが落ちて、パンツ姿になっていたのです。看護師さんがズボンを上にあげてくれて、ほっとしたのもつかの間、またすぐにストンと落ちてしまいました。
看護師さんと目が合い、「またぁ?」と言われながら、2度ほどあげもらいましたが、さすがに高頻度であげてもらうわけにもいかないので、諦めてズボンを落としたまま、手術が終わるまで過ごしました。幸いガウンのおかげで、びんぼっちゃま状態にはならずに済みました。手術が全部終わった後、通常はガウンを破り脱ぐのですが、この時ばかりはガウンを脱ぐ前に真っ先にズボンをあげました。この出来事以後、必ず紐タイプのズボンを選ぶようにしました。周囲の先生は私のズボン事件は知らないまま、無事に手術が終わりました。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。今回は、少しネタのような内容になってしまいましたが、少し皆様の息抜きになったら嬉しいです。明日は、院内ミュージカルのお話です。読んでいただけたら、嬉しいです。よろしくお願いいたします。
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