Dr.Kのあゆみ

Dr.Kのあゆみ Vol.17(後期研修医1年目③〜東日本大震災〜)

後期研修医 東日本大震災

Dr.Kのあゆみ Vol.17(後期研修医1年目③〜東日本大震災〜)

今回のブログはこれまでの「Dr.Kのあゆみ Vol.1~16」の続きになります。
「Dr.Kのあゆみ」シリーズVol.1はこちら
「Dr.Kのあゆみ Vol.16」はこちら

2011年3月11日のこと


腎臓内科後期研修医1年目の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。発生当時、病院の9階にある透析室では午後の透析中で、腎臓内科のスタッフが全員透析室に集まっていました。


血液透析というのは十分に働けない腎臓の代わりに、血液を人工の膜でできたフィルターに通して、老廃物を除去し、PHや電解質を調整し、余分な水分を除去する治療です。シャントと呼ばれる透析用の血管に2本針を刺し、1分間に牛乳瓶1本(約200ml)ほどの血液をポンプを使って機械へ送り、フィルターに通して処理が終わった血液を、もう1本の針が入った血管へ戻します。患者さんの血管と機械とが管1本で繋がっているイメージです。


震災発生時、9階にある透析室は揺れが激しく、透析の機械が動かないようにロックしているにも関わらず、ガタンガタンと揺れながら大きく前進してきます。患者さんと透析機が管1本で繋がっており、管の長さ以上離れてしまうと、患者さんの血管から針が抜けて大変なことになるため、私たちは慌てて、1人1台透析機を押さえました。揺れが激しく、押さえていても、機械はどんどん前進してきます。体重を乗せて、全力で押さえて何とか止めることができましたが、とても怖かったです。透析機を押さえている間は、揺れている時間がとても長く感じました。この日の午後の透析は幸い、ご高齢の患者さんが多く、揺れていても、患者さん自体がパニックになることはありませんでした。揺れがおさまると、透析患者さんの安全のため、透析を終了し、透析室に残るメンバーと、病棟の自分の患者さんが問題ないか見て回るメンバーに分かれました。私は、病棟の患者さんを見て回り、安全を確認したのですが、患者さんが見ているテレビに津波の映像が映っていて、とんでもないことが起こっていることを知りました。


「先生、私は思うように歩けないので、外に逃げないといけなくなったら、僕を背負って逃げてください」と80歳台の男性の入院患者さんから言われました。正直、私は返答に困りました。助けるべき自分の患者さんは他にも沢山いらっしゃるし、とっさに何と答えたら良いかわからず、「わかりました」と答えました。災害時にはトリアージと言って、緊急度と重症度に応じて適切な対応をするために、患者さんを選別する方法がありますが、トリアージのように客観的な指標ではない中で、「誰を助けるか」という選択を強いられることもあるのか、と思いました。当時病院の外に逃げる状況ではありませんでしたので、選択を迫られることはありませんでしたが、この患者さんの一言はよく覚えています。そして、自由に動いて逃げることができないというのは、とても怖い状況なのだということも感じました。

院内ミュージカル


ちょうど、3月12日、13日は院内ミュージカルの本番予定日でした。私は地元から母と祖母を東京に呼んでいて、ちょうど3月11日の昼に羽田空港着の飛行機だったので、羽田空港で二人を被災させてしまいました。私は業務の合間に、母に近くのコンビニで食料と携帯の充電器を買うように連絡しました。
母と祖母は、食料品と椅子を確保し、周囲に居合わせた出張中の男性陣と力を合わせて、状況を把握しながら過ごしていました。羽田空港からの都内各所へのアクセスが遮断されてしまったので、ホテルに向かうことができずにいた母と祖母を、叔父が迎えに行ってくれました。5時間近くかかったそうです。練習をして明日が本番というところだった院内ミュージカルは中止になりました。


夜になり、寮の部屋に戻ると、自分の部屋はガラスが割れたり、パソコンが落ちていたり、ひどい状況となっていました。また、携帯がつながりにくくなっていたので、病院からの連絡にすぐ対応できない可能性がありました。そこで、シャワーだけ浴び、先輩と他の科にいる同期と一緒に病院の透析室に泊まることにしました。
透析室はベッドが並んでいて、ベッドの横にある点滴スタンドには翌日の準備のため、生理食塩水の点滴ボトルがぶら下がっていました。この日の夜は、余震が多く、余震の度に生理食塩水のボトルが大きく揺れました。普段と違う状況にほとんど眠れませんでした。

3月12日の朝


透析室のベッドでうつらうつら眠りながら3月12日の朝を迎えました。院内のコンビニからは水がなくなり、食料もかなり少なくなっていました。突然の非常事態に、昨日までの院内の空気と全然違っていました。震災後の空気はまるで、空気も緊張しているかのような、密度が少し濃くきゅっと締まった感じがありました。そして、東北出身でご家族と連絡が取れていない職員も多く、お互いにとても気を遣っていました。
停電すると透析ができない施設もあるため、各施設が患者さんの受け入れ可能な人数を共有しあったりと情報のやり取りをしました。
中止になった院内ミュージカルのことを考える余裕がありませんでした。

震災で感じたこと


この震災で感じたことは沢山ありますが、その1つに、「その時どこにいるか」ということがあります。
私は、母と祖母を東京に呼び、二人が被災してしまいました。祖母はこの時80歳近くで、年に1回ほどしか東京に来ることはありませんでした。その年1回の上京と震災が重なりました。二人は無事でしたが、二人に何かあったらと思うと怖かったです。東京にも津波があるかもしれないという中で、津波が来たら羽田空港近くの道路は危険であるとも言われていたので、羽田空港からホテルに向かう方が良いのか、羽田空港で待機した方が良いのかという判断も迷いました。


今のコロナウイルスのような感染症、地震・豪雨などの自然災害など、予測できない非常事態が起こった際に、「自分がどこにいるのか」は前もって選択できるものではありませんし、たまたま普段と違う行動をとり、それがプラスとなることもマイナスとなることもあると思います。
「あの時こうしていたら」ということは日常の中でありますが、その経験を次に活かすことができたら、長期的にみると、大事な経験としてストックされ結果オーライなのだと思います。そうして、自分の中で判断する根拠となる経験が増えていき、決断する際はきちんと納得して自分で決断していく。判断する経験が多いほど、知らず知らずのうちにリスクを避ける確率が高まっているのではないかと思います。そして、その決断のもとに行き着いた先「その時どこにいるか」は、自分が納得して選んだ先であれば、きっとどんな結末が待っていようと、後悔はしないのかもしれません。日々の忙しさの中で忘れてしまいがちですが、経験を活かしつつ、丁寧に決断していきたいと改めて思います。


震災から2週間ほどで、腎臓内科後期研修医1年目が終わり、そのまま同じ病院で後期研修医2年目が始まりました。


今回もお読みいただき、ありがとうございました。9年以上前のことで、当時の細かい状況、心情が全て思い出せた訳ではありませんが、今でも肌で感じた非常事態の空気感は忘れられないです。次回は後期研修医2年目が始まります。是非ご覧ください。ありがとうございました。


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ABOUT ME
Dr.K
都内在住の30代女性。 内科医として、西洋医学・東洋医学を学び、現在都内で勤務医をしています。 自身が幼少期から気管支喘息、アレルギー体質であり、また大学時代の左前十字靭帯断裂後手術を受け、そして現在、変形性股関節症と向き合っています。 このブログでは、私自身が抱える健康問題に関して、西洋医学・東洋医学・代替療法・民間療法・スピリチュアル的なアプローチなど、興味が湧き、自分で納得したものを取り入れ、その結果をシェアしていきたいと思います。ゆくゆくはHolistic(ホリスティック)医学(=人間をまるごと全体的にみる医学)を提供できる医師を目指しています。