医学・健康について思うこと

「医学・健康について思うこと」 Vol.1(私の「病気の捉え方」)

病気の捉え方

「医学・健康について思うこと」 Vol.1(私の「病気の捉え方」)

「医学・健康について思うこと」では、「医師として日常の診療で感じること」、「患者として日々の生活で感じること」、「新しく出会った治療法」などについて、私がこれまで感じてきたこと、今感じることを書いていきます。
今感じることなので、これから感じ方、考え方がどんどん変わっていくことが予想されますが、時代とともに考え方が変遷していく様子も、自分自身の備忘録として残していきたいと思っています。よろしくお願いします。

病弱だった幼少期


「Dr.Kのあゆみ」シリーズの初めの方にも書きましたが、私は幼少期は、割と重めな「小児喘息」や「アトピー性皮膚炎」があり、すぐに風邪をひいては、食べられなくなり細い子供でした。
小学6年生の1月まで、喘息で入院することもありました。特に、小さい頃はよく面会謝絶のICUに緊急入院となり、親と離れ離れになる寂しさで、入院中泣いたりもしていました。
子供の頃は病院によく行った記憶があります。

母の影響


今思えば、今の私の病気に対する捉え方は、母からの影響が強いです。
喘息が心配だから、「あれはダメ」、「これはダメ」と行動や活動の制限をされた記憶は一度もありません。
何かあった時のために、重たい吸入器を肩にかついで、色々な所にも連れて行ってもらいました。
運動誘発の喘息もあったので、体育ではよく喘息が起きましたが、持久走大会なども前もって走るのをやめるのではなく、喘息発作が起きるまで走ってみるという形にしていました。意外と完走できたり、完走した後病院へ行ったりしていました。


細かくは覚えていませんが、小学生の時、一度「自分が何かできなかったことを喘息のせい」にしたことがあります。
普段とても優しくて愛情深い母ですが、確かこの時なんと言われたのか詳細は覚えていないのですが、「この件と喘息は関係ないから、病気のせいにしてはいけなない」というようなことを言われたように思います。
自分でも喘息とは関係ないと思っていて、完全に言い訳に使った自覚があったので、母にそう言われた時、「病気を言い訳にした」自分に自然と罪悪感が生まれました。
そして、「喘息を言い訳にするのはやめよう」と思いました。


後で母と子供の頃の方針について話したところ、「『喘息があったからできないことが多かった』と思って欲しくなかった」と言っていました。
そんな考えの母のおかげで、「喘息」のせいで◯◯できなかったという思いを一度もしませんでした。

「喘息のおかげで」


「喘息のせいで」という概念を私に植えつけないようにしてくれた母は、逆に人生のイベントで失敗した時の喘息発作に対しては、「『喘息のおかげ』で救ってもらったね」という表現をしました。


例えば、私はヤマハ音楽教室の専門コースという作曲などをするコースに小学1年生から在籍していたのですが、専門コースは幼稚園の年中、もしくは年長の時点で試験を受けて通った人が、年長、もしくは小学1年生から始まるコースに通うことができるシステムでした。
私は年中の一年早い段階で試験を受ける予定にしていました。試験当日、喘息発作が起きて試験を受けることができず、1年間専門コースに行くことが叶いませんでした。


年長の時の試験は、喘息発作も起きず、無事に合格することができました。各学年ごとに一人ずつ先生がつき、グループレッスンと個人レッスンが週1回ずつありました。
私が合格した年の先生は、とても優しい先生で、グループレッスンのメンバーも個性豊かで真面目すぎない、楽しいメンバーでした。
年中の時に合格していたら、比較的厳しい先生で、真面目な子が多い印象のクラスに入っていたので、もしかしたら大変だったかもしれません。
専門コースに合格して、レッスンが始まった頃、母は私に、「良いクラスに入れてよかったね。きっと喘息が試験のタイミングをずらしてくれて、助けてくれたのかもね」と言いました。
そこで、小学1年生の私は「そうか、喘息が助けてくれることもあるんだ」と本気で思いました。

今の病気の捉え方


いつしか喘息だけでなく、怪我や日々の不調も、心のどこかで「長期的に見たらまた助けてくれているのかも」という考えがベースになっていきました。
「何かタイミングを図ってくれているのかも」、「私に何か重要なことを教えようとしてくれているのかも」といった風に捉える癖がついているのかもしれません。
そうすると、「病気や不調」が単なる嫌で切り離したくなるものではなくなり、自分の一部だという捉え方になります。
今回ブログを通して、「変形性股関節症」について書いてきましたが、今振り返ると、変形性股関節症による痛みは、寝ても覚めても正直かなり辛い痛みでした。ブログを読んで初めて「そこまで辛かったんだね」と周囲の人に言われるくらい、あまり痛みを家族を含め、周囲の人に強く言っていなかったのかもしれません。


それは、「今の不調で大騒ぎ」というよりも、痛みは痛みであるけれど、毎日のことだし、それよりは「長期的に何か必要なことを教えてくれるのかもしれない」という期待もあったからかもしれません。そして、喘息もそうですが、経験的に病気や不調が「教えてくれた」後には快方に向かうようになっているイメージを不思議ともっています。


単なる捉え方と言ってしまえばそれまでですが、私は病気の捉え方というのはとても大切だと思っています。
もちろん、痛み、痒み、辛さなどが強い時には、「捉え方」などがどうでも良くなるくらい辛いと思うので、そういう時には先にしっかり対症療法をする必要があると思いますが、私がもっているイメージはその時の辛さを超えたどこかに、少しの期待があるといった感じです。
「今にフォーカスして辛い層」と、そこから抜けて「何らかの教えや導きとともに快方に向かう層」の2つがあるイメージです。
それは、手前を見ると、「痛み」で辛いし、遠くを見ると「痛みを超えたむしろプラスとなっている世界」があるような距離感のある感覚です。
遠くの世界があるだけで、近くの辛い世界は少し和らぐ気がします。


「病気のせい」ではなく、「病気のおかげ」のマインドを植え込んでくれた母にはとても感謝しています。私の考え方のデフォルトになっているので、きっとこれからもこの考え方で生きていくのだろうなあと思っています。


終わりに一言、「病気のせい」にしたいくらい病気の影響で人生が大変な方も沢山いらっしゃると思います。
そういう方に「病気のおかげ」と言った方が良いですよ、と言いたい訳では決してありません。
誰からなんと言われようと、自身のもつ感情は、それで正解だと思っています。わかりやすく「正解」という単語をもってきましたが、本来感じることに「正解」「不正解」もなく、ジャッジする必要も全くありません。
自分自身の感情を否定はしないで欲しいです。もし、誤解を与えてしまったらごめんなさい。
ただ、捉え方というのは意外に便利で、魔法のように変えることができる手っ取り早い方法ではあるなと思っています。
1つの事象に対して、色々な捉え方ができるというのは、自身の感じたことに振り回されすぎないためのヒントにはなり得るかなぁと思っているので、トライしてみる価値はありそうです。


今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
こんな形で、これまでの人生で医学や健康について思うことを書いていきたいと思っています。
「これからの経験で考え方も変わっていくのかなぁ」、「変わらず貫き通す考え方もあるのかなぁ」と今後の展開に自分でも少しドキドキしています。
ぜひ、ご覧いただけたらと思います。よろしくお願いします。


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ABOUT ME
Dr.K
都内在住の30代女性。 内科医として、西洋医学・東洋医学を学び、現在都内で勤務医をしています。 自身が幼少期から気管支喘息、アレルギー体質であり、また大学時代の左前十字靭帯断裂後手術を受け、そして現在、変形性股関節症と向き合っています。 このブログでは、私自身が抱える健康問題に関して、西洋医学・東洋医学・代替療法・民間療法・スピリチュアル的なアプローチなど、興味が湧き、自分で納得したものを取り入れ、その結果をシェアしていきたいと思います。ゆくゆくはHolistic(ホリスティック)医学(=人間をまるごと全体的にみる医学)を提供できる医師を目指しています。